LONDON Love&Hate 愛と憎しみのロンドン

1999年のクリスマス・イヴにロンドンに。以来、友人達に送りつけていたプライヴェイト・メイル・マガジンがもと。※掲載されている全ての文章の無断引用・転載を禁じます。
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2004年02月の記事一覧

3月は平穏に

2004.02.29
親愛なる皆さん

 こんにちは、雪の予報でしたが、降らずそれほど寒くもならず、漸く風邪が治りかけてきた実感が。まぁ、ふらふら出歩いてばかりだから、治りが遅いんですが。

 今週の月曜日にカウンセリング・ワークショップでやった、CAREを与える(give)人と与えられる(given)人との間の上下関係、もしくは力関係についてご意見を頂きました。正直、答えがないように思います。今学期の初めだったか、やはりレクチャーの中でカウンセラーがとるべき態度、クライアントから望まれる態度についてディスカッションがありました。カウンセラーは「権威」ある人物であるべきなのか、いやカウンセリングでは、クライアントこそ主導権を取るべきだ、何故なら自分の人生を変えていくのはクライアントでありカウンセラーではないから、とか。
 一つ、身近な例。以前も書きましたが、カウンセリングのコースでは、コースで取り上げる理論にかかわらず、学生は個人カウンセリングを受けなければなりません。僕が以前あっていたカウンセラーは、コースの理論から外れるトレーニングをしてきた、と言うことで新しいカウンセラーに会うことになりました。前のカウンセラーは、アポの1日前のキャンセルだったら、チャージしませんでした。が、今度のカウンセラー、また大多数のサイコアナリスとは、一度セッションを設ける日時を長期間のタームで決めたら、たとえクライアントが一月前にキャンセルしても、その分をチャージするんです。
この話をクラスメートから聞いたとき、不愉快でした。まず、競争市場主義からかけ離れているとの思い。更に、アナリストに僕自身の人生をマニピュレイとされているよう、またクライアントの権利が全く鑑みられていない、と思ったからです。あるサイコアナリスと曰く、「貴方は不公平感を感じているんでしょうけど、アナリストは貴方の話を聞いてあげるんだから」、って。確かに「聞いてもらっている」けど、受け入れ難し。こうなるといつもの如く、「絶対にカウンセラーになって、このシステムを壊してやる」、と思うこのごろ。最近漸く理解してきたんですが、僕の行動の原動力の一つは「怒り」であると。善いんだか、悪いんだか。

 今週、イギリスの世論を賑わせている話題が二つ。一つは日本でも報道されていますが、イラク介入を前にイギリス諜報機関が国連事務総長の会話を盗聴したらしい、と言うこと。二つ目は、確かイングランド北部(すいません、風邪で記憶力が著しく減退しています)で、83歳の女性が住民税の値上がり分を払うことを拒み、払うくらいなら刑務所に行くと。スパイの件は、ブレア政権の終焉を予想させますが、この女性の件は資本主義社会が本来の姿になってきていることを感じます。以前の、例えばバブル以前は、資本主義の実情は社会主義だったと思っています。みな、平等と言う感じでしたから。が、今は、持つ者は更にその金と影響力を増やし、持たないものは結局夢を見て終わるだけ、と言う感じがするんです。なんだか、オルダス・ハックスリーの「素晴らしき新世界」に近づきつつあるような。

 政治家になるのも面白そう、なんて思ったりして。



カウンセラーを替える事は、思っていた以上に重い経験。ただ、結局これは吉と出ました。「自分探し」をしているつもりは無いですが、カウンセラーを「使って」自分を知ることが、如何に大変か、如何に面白いかを実感する日々です。
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舞台上の魔物再び

2004.02.27
親愛なる皆さん

 こんにちは、東京は本当に暖かいようですね。今日のロンドンは、どうやら本当に雪と嵐のようです。

 昨夜初日を迎えたロイヤル・バレエの「眠れる森の美女」、これ単に偶然なんでしょうけど、登場キャラクターの一つ「カラボス」に呪われているんじゃないか、と。ロシアの往年の名プリマ、ナタリア・マカロワのプロダクションでロイヤルでの初演は昨年の3月(だったはず)。そのときの初日は、現在出産休暇中のダーシー・バッセル。翌日の新聞を大きく賑わせましたが、最後の最後のパ・ド・ドゥ、終わりまであと5分、と言う所で彼女の足の具合が悪くなり、急遽リラの精をやっていたマリアネラ・ヌニェスが交代、と言うことがありました(これは実際観ていません)。また、1回目を踊ったあと吉田さんが腰を悪化させ、そのあとの「眠り」とヌレエフ追悼プログラムで熊川と踊るはずだった「ライモンダ」までキャンセル。
 昨夜、初日は現在のロイヤルの看板カップル、アリーナ・コジョカルとヨハン・コボー。先に書いちゃうと、昨年「マノン」をこのカップルで観たときは、第1幕のシーン1でコジョカルが足をくじいてジェイミー・タッパーに交代、と言うのを経験しました。昨夜のコジョカル、やはり天賦の才能か、その堂々とした踊りっぷりは、22歳にして既にカンパニーを代表するプリマ・バレリーナの風格がありました。特に、第1幕の「ローズ・アダージョ」の素晴らしさと言ったら。びくともしない回転・バランスによってその可憐な容姿は、一際美しかったです。新国立劇場の「ロメジュリ」、行ってみては如何でしょうか。
 で、第2幕に入って、コボー扮するデジーレ王子登場。取り巻きの皆さんとの軽い踊りのあと、マントを脱ぎもの思いに耽る表情を見せながらジャンプを始めました。二つ目のジャンプだったか、コボーにしては中途半端なジャンプで、右足を引くときになんか変な感じがしたんですが、そのまま踊りつづけたので、単に失敗しただけ、と思っていました。が、取り巻きの皆さんが袖に下がり、リラの精が現われる場面に入る直前に幕が下がり、場内の電灯はともり、オーケストラは演奏を続け、演目を熟知している観客からは「どうした?」といった感じの声があがった所でロイヤル・バレエ監督のメイソン女史が現われ、「コボーは怪我をして続けられません。代わりにフェデリコ・ボネッリが踊ります」。丁度第2幕の途中くらいでした。20分くらいして再開となりましたが、そこから最後まで目を奪われたのは、コジョカルのプロフェッショナルぶり。今まで何度もペアを組み、ベスト・カップルと称されるパートナーが途中退場となっても、全く踊りにはその動揺を見せず(僕にはそう見えました)、最後までお姫様の王道を見せてくれました。
 心配なのはコボー。コジョカル同様、余り怪我をしないダンサーですが、なんでも無い場面での怪我、と言うのが気になります。来月には、コジョカルとのペアで、マクミランの「マイヤーリング」を踊る予定ですが、これは男性舞踊手にとってはかなりきつい演目。ボネッリのあの親しみのある近所のお兄さん顔では代わりは勤まらないだろうし。第2幕が終わり休憩に入り、階段に向かいました。先を歩いていた日本人女性二人が、「代わってよかったね」、「本当、代わったほうがハンサムだし、ラッキーだったよね」。頭をはたいてやろうかと思いました。それとこのアクシデントがあったので、結局終わったのは11時。3時間半の立ち見、と言うのはきつい。早く椅子席に戻れるように、頑張らないと。

ロイヤル・バレエがあってよかった

2004.02.26
親愛なる皆さん

 こんちは、うすかみがはがれる(古臭い表現)スピードで風邪が治りつつあるのを実感する、明日から雪混じりの嵐の予報になっているロンドンです。

 今日、今月の原稿、ケネス・マクミラン振り付けの「ロメオとジュリエット」が掲載されました。来月、再来月は掲載予定がないので、なんか他の書く仕事ないですかね。本紙のほうではいつも通り写真が使われているんですが、編集の人が丁寧に頼んだにもかかわらず、ロイヤルのプレス担当者は、今回のファースト・キャストのコジョカルの写真をよこさなかったんです。彼女、ロイヤルでの「ロメジュリ」の直後、東京の新国立劇場で、間違いでなければ、日本で初めての全幕、しかも同じ演目だからキャプションを入れたかったんですが。
 で、先に心配事を。まず、この間の月曜日、カレッジ終了後へろへろになりながらも、性懲りも無く「バランシーン100」を観にいきました。待っていたニュースは、「ギエムは怪我をしたので今晩は踊りません」。恐らくギエムがそのキャリアで踊るであろう最後の「放蕩息子」を見れなかっただけでなく、ロイヤルと契約を延長していなければ最後になるはずの4月の「ロメジュリ」、毎日に祈る思いです。
更に追い討ち。今日、26日からは「眠れる森の美女」が始まります。観られるときに何度でも、ということで吉田都さんが出る日を予約しました。で、何気にロイヤルのウェブを見たら、吉田さんの名前が何の説明も無くなくなっていたんです。バレエが大好きな知り合いが調べてくれたんですが、彼女のファン・クラブのサイトに、「眠りは、悪くしている腰に負担が掛かる演目なので、考えた末、踊らないことにした」んだそうです。やはり四十路を越えている男性プリンシパルのジョナサン・コープも、昨年の雑誌のインタヴューで、「これからは余り古典は踊りたくない」、と発言していました。
 優雅に見える古典バレエ、見えないところでダンサーの体にかなり負担が掛かっているのを、実感しました。ちなみに、吉田さんの変更に関して、ロイヤル・バレエに、彼らを責める感じのメールを送り、説明を要求したんですが、たかが一人のメールでは、返事は無いです。単に僕の推測ですが、実際、吉田さんが踊った「シンデレラ」、「ジゼル」、「眠り」のチケットの売れ行きは、ロホやコジョカルの日と比べると、やや売れ残りがあるような感じでした。なので、「チケット売る為に、吉田さんを外したなー」、と。いずれにしても、バレリーナ、と言うのは活躍期間が短い、且つ過酷な職業ですね。
 で、その短い花の季節を誇るかのようなバランシーンの「シンフォニー・イン・C」は、何度観ても良かったです。この間の月曜日のトップは吉田さん。確かにラテン系のダンサーと比べると笑顔も地味に見えるけど、素早い足さばき、いつもの通り全く軸がぶれない回転(見ていて嘆息ものです)は、これこそロイヤルの伝統、と思えるものでした。この夜の「シンフォニー」では、プリンシパル・ダンサーが6人と、勝手に次期プリンシパルと思っているローレン・カスバートソンとエドワード・ワトソンがそろって踊っている舞台。これに行ったから風邪の治りがよくない、と言われそうですが、いけてよかった。ロイヤル・バレエが無かったら、とっくにロンドンを離れていたことでしょう。

From Birth to

2004.02.25
凍えそうなくらいの寒さのロンドンより。

 おはようごさいます。こんなに寒いと風邪の治りも芳しくなく。

 昨日、ハーフターム明けのカウンセリングコース、盛りだくさんでした。印象としては、たった一日で人生を走り抜けた感じです。
 まずセオリーは、Bowlby本人のペーパーではなく、彼のアタッチメント・セオリーの入門編のような物でした。それと、乳幼児を観察した記録集から一例を。風邪気味且つ、内容が臨床例に即したもので最初は入って行き辛かったです。大きなテーマは、母親(もしくはMother-figure)は、乳児の不安を受け止められることが望ましい、と言うもの。詳細は割愛して、面白いと思った点。乳幼児の活動範囲、能力は限られているから、母親の経験は乳児にとっては「自分」の経験としてうつる。また、チューターが他の文献からの引用で「Mother contexturises baby's experience because baby does not speak」、例としてたとえ1歳未満でも朝、乳児が目を覚ましたら「Did you sleep well?」、などと繰り返し聞くことは、乳児の感覚を伸ばすことにつながるとか。これが面白かったので、「じゃ、どの年齢までそんなことが必要なんですか?」との問いに、母親でもあるクラスメートが、「自分の子供は9歳と6歳だけど、今でも何したの、どうしたのと毎日聞く。どうしてかというと、子供って覚えていない事が多いから、こちらから聞いて上げないと自分の経験を忘れてしまうのよ」、とのこと。これを受けてチューター曰く、「このコースは大人向けのカウンセリング、と言うことはこういったコミュニケーションは子供と母親の間だけでなく大人同士にも必要」だそうです。
 カウンセリング・ワークショップ。最近は、セオレティカル・セミナーのテーマを引きつぐ課題を学生が考えてやるんですが、昨日は、インストラクションを聞いた当初は「どうつながる?」か全く判りませんでした。
 課題は3人(もしくは4人)のグループで、Drawer, Helper, Observerに分かれ、Dは眼を瞑り言葉によるコミュニケーションも禁止、HがDを助けて紙に幾つかの図形を書く、と言うものでした。で、僕はDを選んだんですが、これが結構不安なものでした。書き始めた当初は、こちらはヘルパーを頼りにしているわけだから従順だし、ヘルパーは、Dを助ける為に優しく指示を与え、手を添えて助けていました。が、ある図形にきたところで、双方が行き詰まり、直後Dは反抗的な態度を取り、Dに添えられたヘルパーの指の筋肉の緊張の高まりと声の変化が更にDの反抗心を煽り、終わったときは双方とも溜息がついでてしまいました。
結局、乳児と母親、もしくはcare giver とcare が必要な人間の間で起こりうるであろうやり取りを再現したものだそうで。Dはヘルパーを頼り、ヘルパーはDを助けることで自己充足を感じる。しかし、ある時点でその関係に緊張が生じたとき、例えば母親は乳児をコントロール出来ないことに不満を募らせ、もしくは自分の考えが理解されないことに怒り、乳児はその緊張を感じ取って反抗してみるとか。親の皆さんにはこんなこと常識なんでしょうけど、新鮮でした。
 次いでオブザヴェイション・ワークショップ。昨日からは、知り合いとの会話を元にしたものになっています。で、僕のグループでは、現役の看護婦さんが、自身と若い同僚、そして不意の内臓疾患から、人工の外付けの消化補助器官をつけることになった30歳の男性との間の会話、と言うものでしたが、これが重くて重くて。男性の怒りの背景にあるさまざまな感情を推察し、その男性の行き所のない怒りを理解できるとしても、そんな状況に自分が居たらどうする、でもカウンセラーになったらそんな状況もありうるんだろうな、と。で、最後のグループワークショップは、初めから終わりまで「人生の最後」についてになってしまいました。疲労困憊、でもやり甲斐のあるコースでよかった。

鬼の霍乱

2004.02.23
親愛なる皆さん

 おはようございます。北日本は大荒れだったようで。ロンドンも、木曜日以来真冬に戻ったようで、公園で満開の水仙が寒そうです。

 先週初めに、誕生の40分後からその成長を見ている、現在14ヶ月の女の子をまたもや計10時間ほどベビーシットしました。母親から、「歩きたがるからたくさん歩かせて」、といわれ、特にでこぼこの道と、段差を何度も上ったり降りたりするのが気に入っていたようなので、手をつないで歩きながら「やった、今回は楽勝」と思いつつ。で、業務が終わりに近づきつつあるとき、ほんの2分ほどケージに入れて戻ってみたら、おお泣きしていて、ケージを開けた途端、ひしっと僕の足にしがみつき、ついで抱き上げろと言わんばかりに両手を開いて涙眼で見つめられたら、そりゃもう、感動の余り直ぐ抱き上げてしまいました。数秒後に冷静になって考えてみると、これが「アタッチメント、と言うやつか」、と。こんなだから心理学者やカウンセラーは嫌われるんでしょうね。
明日の月曜日からは、そのアタッチメント・セオリーで有名なJohn Bowlby を取り上げ幼児から青年期の心の変遷を辿るそうなんです。が、これって精神病理学なんじゃないの、と思うこともあって先は険しそうです。もう直ぐ締め切りのエッセイは絶対に落とせないし。関係ないんですが、この女の子が喉が渇いたときに飲むミネラル・ウォーターがフランス産の「バドワ」、スパークリングです。最初は赤ん坊にフィジーを飲ませて良いのか、と思ったんですが、本人はボトルを見ただけでパヴロフ状態です。
 で、タイトル。赤ちゃん、鼻水をたらしていまして、ただ、本人はいたって元気。抱き上げて鼻をかませようとするたびに僕のシャツになすりつけようとするので、特に初日は気に入りのフレーミング・オレンジのコーデュロイのシャツを着ていたので、何とか擦り付けさせないようにし、2日目はくたびれたシャツに何度も好きなだけこすり付けさせていたら。
潜伏期間一日を経てものの見事に凄まじい鼻詰まり、夜はねられない、昼はボケまくることこの上なく、久方ぶりに風邪を堪能しています。東京の元同僚に電話したら、「赤ん坊からの風邪は結構きついから」、とのこと。思い知りました。話題は飛びますが、共同もお母さんが増えてきたし、カウンセラーの道に挫折したら、共同通信社が社内託児所を作って再雇用してくれないかな、なんて思ったりも。

 今度の木曜日、トールキンの「指輪物語」生誕50周年の記念切手が発売されます。デザインに映画からの場面は全く使われていません。イギリスの切手発行の原則の一つに、王族以外の人物の肖像を使うのは禁止、と言うのがあるからです。その人物が既に亡くなっていれば問題ないそうですが。ご希望の方、1セット、郵送料込みで千円で承ります。ちなみに儲けはないですからね。
 限定の話題。元パリ・オペラ座のエトワール、マリ-クロード・ピエトラガラがマルセイユ国立バレエ団の芸術監督を辞任、と言うか辞任させられたそうです。ロイヤルのプリンシパル・ダンサーのダーシー・バッセルは、12日に二人目の女の子を出産。ここんちのベビー・シッター、というのも良いな。

混乱の日々とオペラ

2004.02.11
親愛なる皆さん

 こんにちは、ヘラルド・トリビューンの週間予報では、日本は今週末大寒波が襲来するそうですが。

 まず、先日の反社会的傾向に連なりそうな面白い、もしくは悲しい記事が、昨日のテレグラフとタイムズに掲載されました。ロンドン在住の17歳の青年が、父親のクレジットカードを借用し、イタリアでショッピング、イギリスに戻ってからもリムジンを雇ってブライトンで散財、4日間で計12,000ポンドをつかったそうです。理由は、「だって、お父さんが1月のバーゲンにつれていってくれなくて、洋服が欲しかったから。悪いことをしたとは思わない」そうです。続けて、「I was not spoiled. My mother was upset but she said she likes my new clothes and she will love me」。先週、もしくは今週勉強した中で、「母親、もしくは母親の代わりの人物は乳児の要求を受け入れるアビリティがあった方が良い。しかし、乳児の要求を全て満たすことはない」、といった論旨のことをウィニコットが言っていたはず。

 昨夜、世界初演のオペラ、「The Tempest」をロイヤルで観てきました。作曲は、Thomas Ades (eの上にアクセントがあります)、出演は一人のアメリカ人ソプラノを除いて他の出演者は全てイギリス人。3幕からなっているんですが、1幕の前半が美しくない。Ariel はソプラノでコロラチューラを多用しているんですが、僕には金切り声でした。批評は「歌手の技能の限界に挑戦しているが、素晴らしい」とのことですが、英語で唄っている割にこのエリアルのコロラチューラのところだけ何を歌っているのがさーっぱり判りませんでした。リヒャルト・シュトラウスは「歌手が何を唄っているのか判るオペラ」を目指したそうですが、21世紀のオペラは逆行しているのかな、と溜息交じりで観ていました。
 が、1幕の後半から最後の3幕までは結構美しいメロディがあって、結果としてはいいオペラだったのかな、と。1幕後半のプロスペロ(サイモン・キーンリサイド、至福の歌声)の娘ミランダとフェルディナンドの二重唱、3幕中盤の5重唱の静かな、祈りにも聞こえる、包み込まれるようなシーンは秀逸でした。セットも良かったし。それと、カリバンを唄ったイアン・ボストリッジ、不気味な衣装とは裏腹に、「ヴェルディは歌えないだろうけど、モーツァルトは最高だろうな」と思わせる、芯のしっかりした滑らかなテノールも良かったです。ただ、「今日も観る?」と尋ねられたら、悩むでしょう。このオペラが日本に行くとは思えませんが、もし観る機会があったら、先にシノプスを読むことをお勧めします。確かテンペストってそんなにポピュラーじゃなかったし、オペラは原作とはかなり違った趣です。
 桜の季節はもう直ぐ、風邪などひかれませんように。

こんな日もあると

2004.02.10
親愛なる皆さん

 こんちは。昨日は、コースで盛りだくさんなことがありまして、引きこもる前に。

 まず、「反社会的傾向」については、僕の能力では今の所理解できる境界を越えましたので、割愛します。救いと言うべきか、クラスの大半がこのトピックについてはカウンセリング、もしくは精神分析につなげるのにもがいている所ですね。
 続くカウンセリング・ワークショップではAntisocial Tendency に結び付けるべく、50年代にイギリスで作られたヴィデオを見てディスカッション。問題はこのフィルム。製作したのはイギリスでは有名なロバートソン夫妻。はっきり言って、苦痛です。彼らが製作したフィルムがあればこそ、イギリスでの精神分析、サイコダイナミック・カウンセリングが発達してきたのは認めるにしても、被験者になった子供の姿を見ていると、「何で抱きしめてあげないんだよー」、との叫びがつい出てしまいます。ウェブからダウンロードできないようですが、www.robertsonfilms.info です。
 彼らのフィルムはこれまでにも何度も観ているんですが、そのたびに「自分は本当にカウンセラーになれるのか?」、との疑問が出てきます。続くオブサヴェイション・ワークショップで、講師に「クライアントに会うとき、誰かを観察するとき、自分(カウンセラー)のセンスを殺さなければならないのか?」と尋ねた所、返答は。「クライアントに引き込まれれば、そのカウンセリングはuseless、クライアントから完全に離れてしまえばそれもまたuseless。カウンセラーにとって、カウンセリングはstruggling なんだ」、とのことですが、自分を納得させらない感じです、今のところ。
 で、最後のエクスペリエンシャル・グループでは二人のクラスメートから、「君の英語は、たまに理解できない」、といわれてしまいまして。しかものそのうちの一人は、英語を母国語としないクラスメイト。数日は勉強からはなれて公園で、のんびりしようかと。



友人曰く、「Counselling is an art of communication」とのこと。後何年かかるのか。

改めて文化摩擦

2004.02.09
親愛なる皆さん

 おはようございます。お健やかにお過ごしのことと思います。ロンドンは、あちこちの公園で既に水仙がほぼ満開、一月以上早く春が来たようです。今日は寒かったですが。とっ散らかった内容になると思いますが、お時間のあるときにでも。

 最近、特に落第したエッセイのフィードバックで書かれていたからですが、同じ言語を喋っていても、結局個人の背後にある歴史によってその認識が大きく違うこともあるんだ、ということを感じます。2週間前のレクチャーで、Destroyと言う単語がもつインパクトをイギリス人のクラスメートが指摘したんですが、僕はそんなには感じませんでした。逆にcontrol のほうがインパクトがあるといってみたんですが、余り共感は得られませんでした。結局その言葉を育んできた歴史や状況を知らないと、考察を共有することは不可能なのかな、と。英語だって、国や地域によって話し方や意味は違ってきます。昨年末、ロイヤルオペラハウスで隣り合ったニューヨーク在住の女性弁護士。しきりに観てきたパリオペラ座でのボリショイバレエの素晴らしさを話すんですが、最初の数分は、「これ、英語か?」、ってな具合でした。耳がチューンアップするまでかなり掛かったような気がします。自分の母国語でない英語でカウンセリングしたいと思いつつ、最近改めて、コミュニケーションの難しさを感じます。ドイツ語もぼちぼち始めているんですが、外国語を話すことについて、ちょっと戸惑っています。
 金曜日に、かつてウィニコットやボウルビーが自身のセオリーを築いたTavistock and Portman病院の総務秘書職のインタヴューを受けてきました。この病院、メンタル・ヘルスの分野ではイギリスではかなり有名です。インタヴュー自体は結構上手く進んだんですが、問題はスキルテスト。インタヴューの間も、オーディオ・タイプが出来るかどうかを聞かれ、それは出来ないけどコピー・タイピングは出来る、と力強く宣言しました。で、コピー・タイピングのテストだったんですが、与えられたセラピストの手書き原稿が全く読めない。以前もなんかで書いたと思うんですが、本当にこちらの皆さんの手書き原稿は、読めない。人が読むと判っていても、自分の筆記を誰もが読めると思い込むのは何故なのかと。言い訳ですけどね。普通だったら与えられた15分でA4一枚は打てるんですが、10行タイプするのがやっとでした。日本の秘書の皆さんは、オーディオ・タイプをするんでしょうか?僕の手書きも、イギリス人の皆さんには読めないそうです。が、これには理由が。僕は中学生の頃、必死に筆記体を書く練習をしました。コッパー・プレートと言うタイプです。30歳以下のイギリス人は、この書体を習っていないそうで、友人曰く、読めるのはシニアの方々だそうです。ちょっと、ショック。

 閑話休題。昨日のファイナンシャル・タイムズの一面の中心記事は、イギリスでの個人破産の申請件数が過去最高を記録したと。記録的に低い金利が続いていた昨年でこれだけ自己破産が多い、ということはこの5月にも予想される再度の金利上昇で更に個人負債、破産が増えるのではないかと。確実に、この国では貧富の差は広がっているように思います。早くカウンセラーになって、がんがん稼がないと。

 鳥インフルエンザが、日本に到達しないことを祈りつつ。

エンタメもろもろ

2004.02.09
それでもエンタメ通いは続いています。

 書き忘れたんですが、先月末、もう直ぐ日本でも上演されるマシュー・ボーン作の「Nutcracker!」を見てきました。正直な所、ボーンの「スワンレイク」、「シンデレラ」、「カーマン」いずれも馴染めませんでした。今回も、「バレエじゃないよな」、というのが最初の感想ですが、バレエでないと割り切ってからは、面白い舞台でした。いろいろ他のミュージカルや映画から発想を得たらしい舞台だそうですが、舞台を楽しく見せる、ということに徹していて、バレエの「くるみ割り人形」より動きもあって、小学校低学年でも楽しめると思います。なんと言っても、あの天然色溢れる舞台は、冬のロンドンの重苦しさを吹き飛ばしてくれました。そうそう、劇団☆新感線の舞台で「スワンレイク」のパロディが観られるそうです。

 吉田都さんが踊る「シンフォニー・イン・C」が見たかったので、ロイヤル・バレエの「バランシーン100」を再度。今回は、吉田さんの相手はヨハン・コボー。知り合い曰く、最近は「ロイヤルに来たての男性ダンサーの教育係みたいで、パートナーに恵まれていない」吉田さんですが、アリーナ・コジョカルとのパートナーシップが始まるまではコボーが吉田さんの相手で、お互いが良く理解しているはず。なので吉田さんも自分の踊りに気分良く集中していたみたいでした。軸のぶれない素晴らしい回転、全くぐらつかないバランス。僕がロンドンに居るかどうかは別にしても、来期あるであろうフレデリック・アシュトンの生誕100年のプログラムには吉田さんは居なければならない存在でしょうね。古典の全幕もいいですが、ステージで総勢50人のダンサーが、一糸乱れずとは言い難かったですが、溌剌と華麗に踊るプログラム、というのを観るとバレエ通いも止められません。
 先日も書いた、ロイヤル・バレエ期待の星、ローレン・カスバートソン。先週は、パートナーの調子が悪く、その影響で彼女は嫌な汗をたくさんかいていたように見えました。ある批評では、彼女が真っ先にするべきことは「不釣合いなパートナーに影響されず、逆にそんなパートナーを上手くコントロールする技術を身につけるべきだ」、と書かれていました。書くのは簡単ですが、19歳の彼女がそんな技術を身につけるのは、もう少し掛かるでしょう。これを読んだとき、真っ先に思い出したのが、シルヴィ・ギエムの「眠れる森の美女」。確か98年だったか、ギエムとオペラ座のル・リッシュが東京でこれに出たとき、第一幕の「ローズ・アダージョ」で4人の王子様たち(日本人ダンサー)に手をとられてバランスをキープしつつ回転する場面。普通のダンサーだと、バランスをキープしつつ回転するんだから、握る腕に力が入り必死で王子の手を離さないようにする所。が、そのときのギエムは自分でバランスをとりつつ自分で回転し、王子達の補助など全く必要としていませんでした。そんなオーロラをもう観ることが出来ないなんて。

 約一月前のファイナンシャル・タイムズの付録の雑誌にメトロポリタンオペラの支配人、Joseph Volpeのインタヴューが出ていました。彼曰く、「ラ・ボエーム」や「椿姫」はあるべき姿で上演されるべきだ、とのこと。その通り。誰がはすっぱな「ルチア」を観たいのか?あるべき姿の「ルチア」を観ないことにはロンドンを離れられません、なんて。
 火曜日に世界初演のオペラ、「テンペスト」を見てきます。イギリス文化を勉強したにもかかわらず、まともに読んだシェイクスピアはこれだけ。それも「アメリカ文化論」の一環として。という個人的な思い入れも深いので楽しみです。それと。大方の予想通り、イングリッシュ・ナショナル・オペラの本拠地改修・上演再開は延期され今月末にずれ込んでいます。

True Self, False Self

2004.02.09
親愛なる皆さん

 おはようございます。もしかしたら、三つ続きます。

 先週は、カウンセリングのセオリーは、「偽の自我、本当の自我」についてのウィニコットの論文二つでした。これが、読んでいる時、クラスでディスカッションしているときは大変面白かったんですが、いざこうやって書こうとすると、難しい。かなり微妙なポイントなので誤解を与えたくないし。なので、反論には答えられないと思います。
 ウィニコットの論文のハイライトに行く前に一つ。これまで、彼の論文には、父親の存在が希薄でしたが、今回初めて極めてはっきりと父親の存在が語られています。ウィニコット曰く、「父親は、乳児にとって男性としての役割はそれほどインパクトは無い。乳児との関係では、父親はAnother Motherだ」、そうです。
 今回、僕が特に惹かれた点は、母親の役割について。最初、a good-enough motherとnot a good-enough motherの表記を見たとき、「何だウィニコットも結局は良い母親・悪い母親で語るのか」、と思ったんですが、きちんと、彼自身に問い掛けていました、What is meant by the term good-enough?
 いい母親であるには、乳児が望むことをきちんと理解していること。母親が受け入れたことを乳児は理解し、自発的に内と外の違いを理解する。この際、母親の理解は、乳児が望むことを全てやるべき、ということではないそうです。逆のパターンは、母親は子供の希望を理解できず、自分の行動を子供が「仕方なく」受け入れたことを感じない、ことだそうです。この状況を受け入れる為に、子供は「偽の自我」を形成し、その背後に「本物自我」を隠す、と。
 ケーススタディとして、10歳の男の子の例を読みました。彼は、学校でいい成績を取ると自分の両親や回りの人が喜ぶのが判るけど、本人は不安に苛まれて夜眠れない。逆に、反社会的なことをすると、周りは困惑するけど、本人は「生きている」実感を取り戻せる。この男の子にとって、「本当の自分」は反社会的な存在だけど、生きていく為には「偽の自分」を受け入れなければならない。結局、このバランスをどうとるか、ということで明日のトピックは「反社会的傾向」についてです。ちなみに、クラスの終了間際、講師からのコメントは、「ウィニコットは、極端な例を取り上げているわけではない。日常生活に関連していることを語っている、ということを忘れないように」。
 書いていても、自分が理解したことを文章にするのが本当に難しいです。明日まで使うテキストはWinnicott の「Playing and Reality」、「Through Paediatrics to Psychoanalysis」、「The Maturational Process and the Facilitating Environment」で、いずれもアマゾンUKで簡単に購入できます。

 昨日の土曜、久しぶりにベイビーシッティングをしました。13ヶ月の女の子、一月前に会ったのに、当然僕のことなど覚えていることも無く、母親が出かけて暫くはドアの前から離れなかったんですが、一人で遊び始めたのを見ていたら、「これが、ウィニコットが言っていたcapacity to be alone with someoneか」、と。やっぱり実体験をしないと、判らないですね。今学期の課題は、観察に関するエッセイ。これを落とすと後が無いので、頑張らないと。
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